石巻日日新聞

6年で築いた深いつながり 災害公営へ転居 期待と不安

石巻日日新聞 2017年3月13日(月)

◆あの日から6年そして今(3)女川町仮設団地で副自治会長 三浦知代さん
女川町総合運動公園の野球場内に23年10月末に整備された2―3階建ての仮設住宅団地。災害公営住宅や自立再建用地の供給が進み、初期の入居者の半数はすでに退去した。一方で、他の仮設住宅からの転居者が加わり、顔ぶれが変わっている。復興とともに変化が生じる仮設団地のコミュニティー形成・維持、高齢者の見守りを統率し続けているのが入居者による自治会だ。(横井康彦)

 野球場仮設団地の副自治会長を務める三浦知代さん(70)は、津波で鷲神浜にあった自宅はがれきもろとも流失したが、子どもたちは他県にいて無事だった。寺院や保育所、勤労青少年センターを回っての避難生活を送り、約8カ月後に今の仮設住宅に落ち着くことができた。

 あの日、巨大地震から津波が来ることを予想し、位牌だけを持って逃げた。でも内心、家にはすぐに戻れると思っていた。「瓦屋根が隣の敷地に落ちたので、『後で直しますから』と伝えていたくらいだもの。高台への避難途中、海岸に向かっていった人たちが亡くなられたと聞き、愕然としました。まさかあれほどのものが来るとは」と振り返る。

 厳しい避難所生活だったが、決して不満を口にすることはなかった。それは、被災を免れた町民や全国から来てくれたボランティアの支援に対する感謝を常に感じていたから。高台に住んでいる知人は、支援でさまざまな場所に家財道具を届け、家の中ががらんとしていた。「あの震災では、家や人を失った人だけが被災者ではない。皆が被災者なのだから、自分勝手は言えない」という思いを絶えず抱いていた。

 そうした恩に報いようと、民生委員の経験がある三浦さんは「周囲の手伝いになることがしたい」と自治会役員に手を挙げた。会員と連携して団地内の行事をはじめ、集会所を活用した茶のみや健康麻雀、カラオケなどでコミュニティー形成を進め、「向こう三軒両隣」の関係を築いた。

 「何十年と女川に住んでいるけれど、この5、6年で同じ境遇の人たちが集まり、ともに暮らした仮設での生活でできたつながりはそれ以上。最初は誰が住んでいるかさえわからなかったのに」。家族や親戚のような関係の深さを実感する。

 そんな三浦さんも、8月ごろに完成する西区の災害公営住宅に移り住むことが決まった。「土の庭で植樹や友達と茶の間でお茶のみするのが震災後の願いでした」と語るが、一方で「団地の仲間と離れることにさみしさ、また一からコミュニティーを作ることへの年齢的なしんどさも感じます。若い世代で皆をまとめてくれる人が出てきてくれたら、ぜひ協力したい」と不安と期待をのぞかせる。

 住まい環境の整備がピークを迎えることで仮設団地自治会にも変化が生じる。宅地供給や災害公営への入居が進み、野球場団地の来年度末の入居者数は約90世帯になる見込み。そのため、自治会組織の活動は難しく、区費徴収も廃止。以前のように住民交流イベントを催すことはなくなる。

 「前は駅周辺の復興が進むにつれて、仮設入居者が取り残されるような感覚だった。ようやく私も一歩を踏み出しますが、まだ新たな住まいに移れない方がいるので、当面は集会所を使った健康麻雀などを続けていけるようお手伝いしたい」と語り、可能な限り支えていくつもりだ。

 新しい姿に変わっている女川町。人口減など課題も多いが、長年暮らしてきた一人として愛着は強い。「あの津波で大きな被害を受けたけれど、やっぱり女川が好きで、海が好き。次の世代である若者に好かれるような町になっていってくれれば」と優しい眼差しで話していた。 

【写真】集会所で友人たちとの語らいを楽しむ三浦さん(左)

最終更新:2017年3月13日(月)

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